毎年1月2日、テレビの前で「なぜあの坂をあんな速さで登れるのか」と唸ってしまう区間があります。箱根駅伝の往路5区、いわゆる「山上り」です。距離は20.8kmと、フルマラソンの半分にも届きません。それなのに、ここで数分の差が動き、優勝校が入れ替わり、「山の神」という呼び名まで生まれてしまう。
結論から言うと、5区が特別なのは距離ではなく「標高差874m」と「16.2kmで登りが終わる」という二重構造にあります。海抜ゼロに近い小田原から国道1号線の最高地点まで一気に駆け上がり、そこから今度は下ってゴールする。登りの脚と下りの脚、両方を20.8kmの中で使い切る設計になっているのです。
この記事では、5区のコースを1kmごとの通過ポイントまで分解し、区間記録1時間7分16秒がどれほどの走りなのかを平均ペースに換算して確かめます。さらに、市民ランナーが箱根の坂から盗めるトレーニングと、実際にこのコースを自分の足で走るときの現実的な注意点までまとめました。
・5区20.8kmの高低差・勾配・通過ポイントの全体像
・区間記録1時間7分16秒を平均ペースに換算するとどうなるか
・5区の距離が23.4kmから20.8kmに短縮された理由
・市民ランナーが箱根の坂を安全に走るための装備と区切り方
箱根駅伝5区コースは20.8kmで標高差874m|数字で見る「山上り」の正体

まずは全体像を数字で押さえます。ここを理解しておくと、テレビ中継で選手の表情が変わる瞬間の意味が全部わかるようになります。
小田原中継所から芦ノ湖まで20.8km|距離だけ見れば全10区間で最短クラス
5区のスタートは小田原中継所(神奈川県小田原市風祭245)、ゴールは箱根町芦ノ湖駐車場です。大会公式サイトが示す区間距離は20.8kmで、これは全10区間の中で6区と並んで最も短い数字です。最長の2区・9区は23.1km、10区は23.0kmですから、5区は2区より2.3kmも短いことになります。
それでも公式サイトが5区を「最大の難所 山上り」と表現するのは、距離が走りの負荷をまったく代表していないからです。同じ20.8kmでも、平坦な河川敷を走るのと標高874mまで登るのとでは、心肺にも脚にもかかる負荷がまるで違います。実際、5区の区間記録は1時間7分16秒。単純計算で平均キロ3分14秒ですが、これは登り区間を含んだ数字です。
ここで注意したいのは、5区を「短いから楽」と誤解しないことです。距離が短いぶん1kmあたりの落差が大きく、少しペース判断を誤ると取り返しがつきません。市民ランナーが同じコースを走る場合も、20.8kmという数字だけで「ハーフより短いから」と考えると痛い目に遭います。実感としてはフル30km走に近い消耗だと考えて計画を組むのが安全です。
箱根湯本の標高95mから874mへ|約13kmを平均勾配6%で押し上げ続ける
5区の登りが本格化するのは、スタートから4km手前の函嶺洞門を過ぎたあたりからです。箱根湯本付近の標高はおよそ95m。そこから芦之湯近くのピークである標高874mまで、標高差にして約780mを、約13kmかけて登り続けます。平均勾配にすると約60パーミル、つまり約6%です。
6%という数字はピンとこないかもしれませんが、100m進むごとに6m上がる計算です。一般的な道路のきつい坂が5〜8%程度と考えると、5区は「きつい坂」が13km連続する区間ということになります。しかも平均が6%ですから、区間内には当然それを上回る箇所が存在します。
この勾配が効いてくるのは中盤以降です。登り始めの数kmは筋グリコーゲンが残っているので押していけますが、10kmを超えたあたりから同じ出力を保てなくなります。テレビ中継で「表情が変わった」と実況されるのはたいていこの局面です。市民ランナーが同じ坂に挑む場合、序盤3kmは意図的に抑えないと、後半は歩くことになります。
・区間距離:20.8km(大会公式サイト)
・国道1号線最高地点:標高874m
・最大標高差:874m
・登坂区間:箱根湯本(約95m)→ 874m、標高差約780mを約13km
・平均勾配:約60パーミル(約6%)
・下りに転じる地点:16.2km、下り基調は19km過ぎの箱根神社大鳥居まで
(出典:東京箱根間往復大学駅伝競走公式サイト、報道各紙)
16.2kmで登りは終わる|残り約4.6kmは下りという二重構造
5区を「ただの登り区間」と考えていると、この事実で認識が変わります。公式サイトの記述によれば、16.2kmの最高地点を過ぎると、19km過ぎの箱根神社大鳥居まではコースが下りに転じます。つまり20.8kmのうち、最後の約4.6kmは登りではありません。
そして公式サイトはこの切り替えについて「ここでの走りの切り替えがゴールタイムを左右する大きなポイント」と明記しています。13km以上登り続けた脚で、いきなり下りに対応しなければならない。登りで主に使うのは殿筋やふくらはぎ、下りで衝撃を受け止めるのは大腿四頭筋です。使う筋肉がスイッチする瞬間に、脚が言うことを聞かなくなる選手が出ます。
下りに入ってからペースを上げられるかどうかで、ゴールタイムは1分以上動きます。第102回で黒田朝日選手が1時間7分16秒という記録を出したのも、登りの強さだけでなく、頂上以降の下りで失速しなかったことが大きいと報じられています。市民ランナーが同じ構造のコースを走るときも、「登り切ったら終わり」ではなく「登り切ってから本番」と考えておくと、脚の残し方が変わります。
気温は約5℃下がる|同じレースなのに気象条件が別物になる区間
標高が上がれば気温は下がります。一般に標高が100m上がると気温はおよそ0.6℃下がるとされ、この計算をあてはめると、小田原のスタート地点と標高874mの最高地点では約5℃の差が生まれます。1月2日の箱根で5℃の低下は、体感としてはかなり大きな変化です。
厄介なのは、登りで大量に汗をかいた直後に、気温が最も低い高地へ到達し、さらに下りでスピードが出て風を受ける、という順番になっていることです。濡れたウェアと向かい風が重なると体温は一気に奪われます。過去に5区で低体温症の症状を訴える選手が出たのは、この構造が原因のひとつでした。
市民ランナーが冬に同じルートを走る場合、この気温差は装備の設計そのものを変えます。スタート時に快適な服装は、頂上では確実に寒い。逆に頂上基準で厚着すると、登りで汗だくになって結局冷えます。薄手のウインドシェルを1枚携行して、最高地点の手前で羽織るのが現実的な解です。
1kmごとに表情が変わる|5区の通過ポイントをスタートから順にたどる
ここからは実際のコースを順番に歩いていきます。テレビで見るあの景色が何km地点なのかがわかると、観戦の解像度が一段上がります。
0〜4km 箱根湯本まで|まだ登りではない、だからこそ壊れる区間
小田原中継所を飛び出した選手は、約1km地点で箱根湯本駅前を通過します。ここまでは市街地で、勾配もまだ緩やかです。本格的な登坂が始まるのは4km手前の函嶺洞門を過ぎたあたりから。つまり最初の4kmは、5区の中では「まだ平地に近い」区間です。
この序盤で何が起こるか。前を走る大学との差を詰めようとして、あるいはタスキを受けた勢いのまま、つい平地の感覚でペースを刻んでしまうのです。ところが5区の本当の勝負は10km以降にあります。序盤4kmで貯金を作りにいった結果、中盤で完全に脚が止まるパターンは繰り返し起きています。
市民ランナーがこのコースを走るときも同じです。箱根湯本駅を起点にすると最初の数kmは走れてしまうので、気持ちよく入ってしまう。しかしその後13kmの登りが控えていることを考えると、序盤は「物足りない」と感じるくらいで正解です。目安として、ふだんのジョグより1kmあたり30秒以上遅く入っても問題ありません。
4〜7km 函嶺洞門から大平台のヘアピンカーブ|最初の給水が置かれる難所
函嶺洞門を過ぎると勾配が明確に立ち上がり、7km付近で大平台のヘアピンカーブに差しかかります。ここは箱根登山鉄道の大平台駅から徒歩約5分の場所にあり、道が大きく折り返すため、沿道からは選手が至近距離で2回見られる人気の観戦スポットです。第一給水が置かれるのもこのエリアです。
ヘアピンカーブが走りにくいのは、単にきついからではありません。カーブの内側と外側で勾配が変わり、路面が傾いているため、体幹が振られやすいのです。同じ登りでも直線の坂より消耗が大きくなります。給水がここに配置されているのは、体力的にひと区切りつくポイントだからでもあります。
観戦目的でこの場所を訪れる場合、大平台駅は小さな駅で、当日は登山鉄道が非常に混雑します。移動時間には余裕を見てください。逆に練習で走る場合は、このヘアピン区間を折り返しに設定すると、往復14km前後で「登って下る」練習が完結します。5区の構造をコンパクトに体験するには手頃な距離です。
7〜12km 宮ノ下から小涌園前|沿道が最も厚くなる本当の勝負どころ
9km付近で宮ノ下、12km付近で小涌園前を通過します。この区間はホテルや土産物店が並ぶエリアで、沿道の観客が最も密集する場所のひとつです。テレビ中継で人垣の間を選手が抜けていく映像が流れるのは、たいていこのあたりです。
コース的には、この5kmが5区で最も苦しい局面になります。すでに登り始めてから8km近く経過しており、脚には乳酸が溜まり、心拍は上限近くまで上がっている。それでいて頂上まではまだ4km以上残っている。ペースを守るのではなく「落ちるスピードをどれだけ緩やかにできるか」の勝負に切り替わります。
順位の変動が最も起きやすいのもここです。前半で無理をした選手はこの区間で失速し、抑えて入った選手が次々に抜き返していきます。市民ランナーの実走でも同じで、宮ノ下から小涌園前までを「淡々と刻めるペース」で通過できるかどうかが、頂上まで走り切れるかどうかの分岐点になります。歩きたくなったら、無理せず一度歩幅を極端に狭めて刻む方が復帰が早いです。
宮ノ下から小涌園前にかけては道幅が狭く、歩道が途切れる区間があります。大会当日は交通規制と大勢の観客で歩行にも時間がかかり、練習日は大型車や観光バスの通行が多い場所です。写真を撮りながら走る、横に広がって走るといった行為は避けてください。
12〜16.2km 芦之湯から国道1号線最高地点|標高874mの頂へ
16km付近の芦之湯には最後の給水が置かれ、その直後、16.2km地点で国道1号線の最高地点である標高874mに到達します。スタートから約16kmかけて、海抜に近い小田原から874mまで登り切ったことになります。ここが5区の、そして箱根駅伝全体の最高到達点です。
この最後の4kmが精神的に一番きついと言われます。頂上が近いことは頭でわかっていても、疲労はピークにあり、気温は下がり、風も強い。ペースは自然と落ちますが、ここで我慢できるかどうかで最終的な区間順位が決まります。頂上を過ぎた瞬間に一気に切り替えられる選手が、結果的に上位に来ます。
頂上以降は19km過ぎの箱根神社大鳥居まで下り基調となり、その先で芦ノ湖のゴールを迎えます。実走する市民ランナーにとっては、ここからが最も気持ちのいい区間です。ただし下りは着地衝撃が大きく、疲れた脚では捻挫のリスクも上がります。歩幅を広げて飛ばすのではなく、回転数を上げて衝撃を分散させる走り方が安全です。
なぜ5区で数分の差が生まれるのか|順位が入れ替わる4つのメカニズム

「山で逆転」は箱根駅伝の定番ですが、それには構造的な理由があります。4つの角度から整理します。
登りは平地の実力順が通用しない|体重比とフォームが効く世界
平地のトラックで速い選手が、必ずしも5区で速いわけではありません。登りでは重力に逆らって体を持ち上げる仕事が加わるため、体重あたりの出力、いわゆるパワーウェイトレシオの影響が大きくなります。同じ5000mのタイムを持つ2人でも、登坂能力には差が出ます。
加えて、登りでは接地時間が長くなり、ストライドが自然と狭まります。平地で大きなストライドを武器にしている選手ほど、その武器が使えなくなる。逆にピッチ型で、上体を軽く前傾させて坂に体を預けられる選手が有利になります。5区に「専門家」が存在するのはこのためです。
だからこそ各校は、5区候補の選手を平地のタイムだけで選びません。実際に箱根の山で試走させ、上り適性を確かめてから起用します。市民ランナーにとっても示唆的で、坂に強くなりたいなら平地のスピード練習だけでは不十分だということです。坂は坂で練習しないと速くなりません。
低体温症と低血糖|23.4kmから20.8kmへ短縮された本当の理由
現在の20.8kmという距離は、第93回大会(2017年)から適用されているものです。それ以前は23.2km、さらにさかのぼると23.4kmという時代がありました。つまり5区はかつて、今より2.5km以上長い山上り区間だったのです。
短縮の背景として報じられたのは、山上りの生理的負担の大きさです。海抜に近い地点から標高874mまで登る長距離走では、レース後半に低体温症や低血糖の症状を訴える選手が続出しました。加えて、5区が総合成績を左右する比重が大きくなりすぎたこと、4区の距離が短縮されたことでマラソンに対応できる選手の育成が妨げられるという懸念も指摘されていました。
この経緯を知ると、5区が単に「きつい区間」ではなく、選手の安全と競技バランスの両面から設計し直された区間であることがわかります。市民ランナーが同じコースを走るときも、低体温症と低血糖は他人事ではありません。冬季に単独で全区間を走るなら、防寒具と補給食は必須装備だと考えてください。
復路6区とのセット構造|往路で作った貯金は翌日の下りで削られる
5区の話は、実は6区とセットで考える必要があります。6区は5区とほぼ同じルートを逆方向に下る区間で、距離も同じ20.8kmです。つまり山上りで稼いだ差は、翌日の山下りで再び動く可能性がある。
6区は下りの区間ですが、決して楽ではありません。20.8kmを下り続けるため大腿四頭筋への衝撃が蓄積し、ブレーキをかけ続けた脚は終盤に効かなくなります。しかもスピードが出るぶん、フォームが崩れたときのリスクも大きい。「山下り」の専門選手が存在するのも、5区と同じ理由です。
だから各校の監督は、5区と6区の人選をセットで組み立てます。5区で3分縮めても6区で3分失えば意味がありません。この「登って下る」構造こそが箱根駅伝の戦略性の核心であり、他の駅伝にはない面白さを生んでいます。テレビ観戦するときは、往路5区の結果を復路6区の朝まで持ち越して見ると、レースが二日がかりのドラマとして立ち上がってきます。
5区に誰を置くか|「花の2区」とエースの配置をめぐる駆け引き
従来、各校のエースは平地最長級の2区に置かれるのが定石とされてきました。「花の2区」という言葉が定着しているのもそのためです。ところが5区の重要性が語られるようになってから、エース級を山に投入する判断が増えています。
その象徴が、第102回で1時間7分16秒の区間新記録を出した青山学院大学の黒田朝日選手です。チームの主力を山に配置し、そこで大きな差を作るという選択が、実際に結果として現れました。5区は距離こそ短いものの、走力差が最も増幅されて出る区間だからです。
ただし、この起用にはリスクもあります。5区に適性がない選手を置くと、逆に大きく失う可能性がある。平地なら1kmあたり数秒の差で済むところが、山では十数秒に広がってしまうためです。区間配置は各校の哲学が最も色濃く出る部分で、ここを予想するのも箱根駅伝の楽しみ方のひとつになっています。
区間記録1時間7分16秒は何がすごいのか|歴代タイムを平均ペースに換算する
数字の意味を体感するために、歴代の区間記録を平均ペースに直してみます。ここが本記事で最も「ヤバさ」が伝わるパートです。
第102回・黒田朝日が1分55秒更新|従来記録を丸ごと塗り替えた走り
2026年の第102回箱根駅伝で、青山学院大学の黒田朝日選手が5区を1時間7分16秒で走破し、区間新記録を樹立しました。従来の記録は前回大会で同じ青山学院大学の若林宏樹選手が出した1時間9分11秒で、それを1分55秒上回る更新幅です。
駅伝の区間記録が2分近く塗り替えられるのは、極めて異例です。1kmあたりに直すと約5.5秒の差になります。20.8kmという短い区間で、これだけの差をつけるというのは、従来の常識が一段階更新されたことを意味します。
この記録が生まれた背景には、厚底シューズを含む用具の進化、山上り専用のトレーニング体系の確立、そして選手個人の適性が重なっています。ただし、記録がどこまで速くなり得るのかについては見方が分かれています。標高874mを登るという物理的な仕事量は変わらないため、平地の記録ほど単純には伸びない、という指摘もあります。
歴代トップ5を平均ペースに換算|キロ3分14秒で山を登るという事実
ここで、大会公式サイトが公開している第93回以降の区間記録上位と、最新の区間新記録を、20.8kmの平均ペースに換算してみます。単純に「タイム÷20.8km」で計算した数字です。
・1時間07分16秒(黒田朝日/青学大・第102回 区間新)→ 平均キロ3分14秒
・1時間09分11秒(若林宏樹/青学大・第101回)→ 平均キロ3分20秒
・1時間09分14秒(山本唯翔/城西大・第100回)→ 平均キロ3分20秒
・1時間09分31秒(工藤慎作/早稲田大・第101回)→ 平均キロ3分21秒
・1時間10分19秒(四釜峻佑/順天堂大・第99回)→ 平均キロ3分23秒
・1時間20分00秒 → 平均キロ3分51秒
・1時間40分00秒 → 平均キロ4分49秒
・2時間00分00秒 → 平均キロ5分46秒
・2時間30分00秒 → 平均キロ7分13秒
(タイムは大会公式サイトおよび報道より。ペースは20.8kmで割った単純平均)
キロ3分14秒という数字は、平地のハーフマラソンでもサブ70分クラスのペースです。それを標高差874mの登り込みで出しているわけですから、驚くほかありません。一方で表の下半分を見ると、市民ランナーが同じコースを2時間で走ればキロ5分46秒、2時間30分ならキロ7分13秒。この換算を頭に入れておくと、自分がこのコースに挑むときの現実的な目標設定ができます。
山の神の系譜|初代・今井正人から現在まで受け継がれる称号
5区で圧倒的な走りを見せた選手には「山の神」という称号が贈られてきました。初代とされるのが順天堂大学の今井正人選手、2代目が東洋大学の柏原竜二選手です。柏原選手は23.4km時代の5区で4年連続の区間賞を獲得し、悪条件の中でも走り切る強さで記憶されています。
3代目として語られるのが青山学院大学の神野大地選手で、コースが変更されていく時期に高いレベルのタイムを残しました。そして距離が20.8kmになった現行コースでは、若林宏樹選手が「若の神」と呼ばれ、第102回で区間新記録を出した黒田朝日選手が4代目の山の神として扱われるようになっています。
興味深いのは、称号の付き方が「タイムの絶対値」だけで決まっていない点です。区間記録の更新幅、チームへの貢献度、そしてレース展開のドラマ性が絡み合って、初めて「神」と呼ばれます。だからこそ、5区は単なる記録競技ではなく物語として語り継がれるのです。
意外と知られていないけれど|5区の強さは「登り専門」では説明できない
「山だけ強い特殊な選手」というイメージは、実は現在の5区には当てはまりにくくなっています。区間記録を持つ選手たちは、いずれも平地でもチームの主力を張る走力の持ち主です。登坂適性は平地の走力に「上乗せ」されるもので、それ単体では最上位に届かない、というのが今の5区の姿です。
この視点は市民ランナーにも当てはまります。「坂が苦手だから坂だけ練習する」より、平地の巡航能力を底上げしたうえで坂に慣れる方が、結果として坂も速くなります。土台となる有酸素能力がなければ、登りで上がった心拍を処理し切れないからです。
逆に言えば、坂の練習は平地の力にも返ってきます。登坂は自然に接地時間が長くなり、殿筋やハムストリングスを使う感覚が養われるため、平地のフォーム改善にもつながります。5区の選手が特殊な訓練だけをしているわけではない、というのは市民ランナーにとって朗報です。
市民ランナーが箱根の山から盗める坂トレーニング4選
ここからは実践編です。5区の選手がやっていることのうち、週末ランナーでも取り入れられる4つを整理します。
1. ヒルリピート|300〜600mの坂を繰り返す最も効率のいい練習
坂に強くなる最短ルートは、坂を繰り返し登ることです。勾配5〜8%程度の坂を選び、300〜600mを全力の8割程度で駆け上がり、ゆっくり下って回復、これを5〜8本繰り返します。上りは心肺に強い刺激が入り、下りが自然な休息になるため、平地のインターバルより取り組みやすいのが利点です。
効果が出る理由は、登坂が接地時の負荷を高め、筋力と心肺機能に同時に刺激を入れられる点にあります。平地のスピード練習に比べて着地衝撃が小さく、故障リスクを抑えながら強度を上げられるのも大きい。月に2〜3回、通常のジョグに置き換える形で十分です。
注意点は、下りで飛ばさないこと。ヒルリピートで脚を痛める人の大半は、登りではなく下りで壊しています。回復区間はジョグかウォークで、下り自体をトレーニングにしないのが基本です。また、傾斜がきつすぎる坂(10%超)は膝や足首への負担が大きく、初心者には不向きです。
2. 登りのフォーム|ストライドを捨ててピッチで刻むのが正解
坂を登るときにやりがちなのが、平地と同じ歩幅で押し切ろうとすることです。しかし勾配6%の坂で歩幅を維持しようとすると、一歩あたりの持ち上げ量が増えて一気に消耗します。正解は歩幅を意図的に狭め、回転数を上げること。同じ速度でも消耗が明確に変わります。
上体は坂に対して軽く前傾させ、重心を進行方向に置きます。ただし腰から折れるのは逆効果で、くるぶし・腰・肩が一直線になるイメージを保ったまま、全身で前傾するのがポイントです。腕振りは平地よりやや大きめにして、リズムで脚を引き上げます。
視線を落としすぎるのもよくある失敗です。足元ばかり見ていると胸郭が潰れて呼吸が浅くなり、心拍だけが上がっていきます。5〜10m先の路面を見るくらいが適切です。フォームの土台そのものを見直したい方は、こちらも参考にしてください。

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3. 下りの練習|大腿四頭筋を壊す最大の原因は「ブレーキ着地」
5区の最後の4.6kmが下りであるように、坂の練習は下りとセットで初めて完成します。ところが下りは、練習でも本番でも最も故障を生みやすい局面です。原因ははっきりしていて、歩幅を広げて踵からブレーキをかける着地をしているためです。
よくある失敗パターンがこれです。登りを頑張り切った達成感で下りを一気に飛ばし、その日は気持ちよく終わったのに、翌々日から大腿四頭筋が階段も降りられないほどの筋肉痛になる。ひどい場合は1週間以上まともに走れません。原因は下り特有の伸張性収縮による筋損傷で、平地のジョグでは起きにくいダメージです。
対策は3つ。歩幅を狭めて回転数を上げる、体を後ろに残さず斜面に対して垂直に立つ、そして最初の下り練習では距離を1〜2kmに限定することです。慣れないうちは、下りをジョグで通過するだけでも十分な適応刺激になります。下りで膝に不安が出る方は、サポーターで衝撃を抑える選択肢もあります。
4. 心拍で管理する|坂ではペースではなく心拍を指標にする
坂のトレーニングでペース設定を使うと、ほぼ必ず破綻します。勾配によって同じ強度でもペースが1kmあたり1分以上変わるためです。そこで有効なのが心拍数による管理で、最大心拍の80〜88%程度をヒルリピートの目安、70〜75%程度を登りジョグの目安にすると、勾配が変わっても強度を一定に保てます。
この方法の利点は、体調による日差を吸収できることです。寝不足や疲労が残っている日は同じペースでも心拍が高く出るため、「今日は追い込むべきではない」という判断が客観的にできます。坂は無理をしやすい場所なので、この客観指標の価値は平地以上に高くなります。
注意点として、心拍は気温や脱水でも上がります。夏場の坂練習では、同じ心拍でも実際の走力より低いペースになるのが普通です。心拍ゾーンの具体的な設定方法は、こちらで詳しく整理しています。

「ランニング中の心拍数、どのくらいが正しいの?」——GPSウォッチを買ったものの、画面に表示される心拍数の意味がわからず、結局ペースだけ見て走っている。そんなラ…
- Step1: 自宅から5km圏内で、勾配5〜8%・長さ300〜600mの坂を1本見つける
- Step2: 最初は4本から。登りは心拍80〜88%、下りは必ずジョグで戻る
- Step3: 2週間ごとに1本ずつ増やし、8本まで到達したら1本の距離を伸ばす
箱根駅伝5区コースを自分の足で走る方法|実走ガイドと安全の鉄則
「テレビで見ていたあの坂を自分で走ってみたい」。そう思ったら、いくつか押さえておくべき現実があります。
ベストシーズンは春と秋|真冬と真夏は難易度が跳ね上がる
結論として、箱根の山を走るなら4〜6月と10〜11月が最も安全です。理由は気温で、標高874mの最高地点は小田原より約5℃低くなります。真冬は路面凍結の可能性があり、標高の高い区間では積雪も起こり得ます。市民ランナーが単独で走るには条件が厳しすぎます。
逆に真夏は、13kmの登り込みで発汗量が跳ね上がり、脱水と熱中症のリスクが高まります。コース上に自動販売機はありますが、宮ノ下から芦之湯にかけては商店の間隔が空く区間があるため、補給計画なしで入ると危険です。走るなら早朝一択になります。
春と秋を選べば、気温面のリスクが最も小さくなります。ただし観光シーズンと重なるため、休日は交通量が大幅に増えます。可能であれば平日の午前中、それが難しければ休日でも早朝スタートにするのが賢明です。日没時刻にも注意が必要で、山間部は平地より早く暗くなります。
交通量と歩道が最大のリスク|「観光地の国道を走る」という現実
5区のコースは国道1号線であり、大会当日以外は当然ながら一般車両が通行しています。箱根は日本有数の観光地ですから、大型の観光バスやトラックの通行も多い。しかも一部区間では歩道が狭く、あるいは途切れます。旧街道側に入れば石畳の区間もあり、路面状態は良くありません。
もうひとつの失敗パターンがこれです。「駅伝コースを走る」ことだけを目的に、装備を軽くして昼過ぎにスタートし、思ったより登りに時間がかかって日没を迎える。街灯の少ない山間部で、反射材もライトも持たずに国道の路肩を走ることになり、極めて危険な状況に陥ります。往路の登りは想定より1kmあたり1〜2分遅くなると考えて、時間には大きな余裕を取るべきです。
対策として、必ず明るいうちに走り終える計画を立てること、反射材付きのウェアやベストを着用すること、単独ではなく2人以上で走ること、そして横に並ばず縦一列で走ることを徹底してください。観光客も多い場所なので、歩行者への配慮も欠かせません。
- ☑ 薄手のウインドシェル(頂上付近の気温低下と汗冷え対策)
- ☑ 補給食2個以上(13kmの登坂は消費が大きい)
- ☑ 500ml以上の水分+小銭または電子マネー
- ☑ 反射材付きウェアまたはベスト、小型ライト
- ☑ 交通系ICカード(途中リタイア時に登山鉄道・バスで下山するため)
- ☑ クッション性の高いシューズ(下りの衝撃対策)
シューズ選びは「下り基準」で|薄底レーシングは向かない
結論から言うと、このコースを走るなら日常のジョグで使っているクッション系のシューズが最適です。理由は最後の下りにあります。登りだけならグリップと軽さが効きますが、疲労した脚で4km以上下ることを考えると、着地衝撃を吸収してくれるミッドソールの厚みが効いてきます。
薄底のレーシングシューズは避けた方が無難です。反発性は高くても衝撃吸収は限定的で、下りで大腿四頭筋への負担が跳ね上がります。またコース上には路面が荒れた箇所や濡れた区間もあるため、アウトソールのグリップも見ておきたいポイントです。
もうひとつ、サイズ選びにも注意が必要です。長い下りではつま先が前に押し出されるため、普段ぴったりのサイズだと爪を痛めることがあります。つま先に1cm程度の余裕があるサイズを選び、下りに入る前に一度靴紐を締め直すと、爪のトラブルをかなり防げます。
レベル別の区切り方|いきなり20.8km通しに挑まない
初心者、つまりフル完走を目標にしている段階のランナーは、箱根湯本駅から大平台のヘアピンカーブまでの往復(約8〜10km)から始めるのがおすすめです。5区の勾配を体験しつつ、鉄道駅が近いのでいつでも中断できます。
中級者(サブ4〜サブ5クラス)なら、箱根湯本から小涌園前付近まで、片道12km前後を登って公共交通機関で戻る形が現実的です。5区の最も苦しい区間を体験でき、なおかつ帰路の脚を残す必要がありません。上級者(サブ3.5以上)であれば、小田原中継所付近から芦ノ湖まで20.8kmの通し走に挑む価値があります。
いずれの場合も、標高が上がる高低差ランに慣れておくと安心です。関東近郊なら山中湖や河口湖のような高原の周回コースが、標高と距離の両方に体を慣らす練習として使えます。

「山中湖を一周走ってみたいけど、距離はどのくらい?」「アップダウンはきつい?」「どこに車を停めればいい?」——富士山を正面に見ながら走れる山中湖の湖畔コースは、…
観戦するならどこがいい?沿道スポットとテレビでの見どころ
走るだけが楽しみ方ではありません。5区は観戦の面白さでも群を抜いています。
大平台のヘアピンカーブ|同じ選手を2回見られる特等席
7km付近の大平台のヘアピンカーブは、5区で最も人気の観戦スポットです。道路が大きく折り返す構造のため、同じ選手が視界の中を2回通過します。しかも登坂の真っ只中なので、選手のスピードが比較的落ちており、表情や走りの状態がはっきり見えます。
アクセスは箱根登山鉄道の大平台駅から徒歩約5分。駅からの距離が短いのは大きな利点ですが、その分ここに人が集中します。当日は登山鉄道が非常に混雑し、待ち時間が長くなるため、選手の通過予想時刻の2時間前には現地入りしておく計画が安全です。
注意点として、ヘアピンカーブは道幅が狭く、警備上の規制もかかります。指定された場所以外での観戦や、車道への身体の乗り出しは絶対に避けてください。三脚を使った撮影も、周囲の観客の視界を遮るため場所によっては難しいと考えておいた方がいいです。
宮ノ下・小涌園前|レースが動く瞬間に立ち会えるエリア
9km付近の宮ノ下から12km付近の小涌園前にかけては、順位変動が最も起きやすいエリアです。前半で突っ込んだ選手が失速し、抑えた選手が抜き返す。テレビ中継でも実況が最も熱を帯びる場所で、現地ではその空気が生で伝わってきます。
このエリアは宿泊施設や飲食店が多く、観戦の前後に休憩できる場所を確保しやすいのも利点です。ただし当日は周辺道路に交通規制がかかり、移動が大幅に制限されます。車での訪問は現実的ではなく、鉄道とバスを前提に計画を立ててください。
デメリットとしては、人気エリアゆえに最前列を確保するのが難しい点があります。身長差で見えないという事態も起こり得るので、小さなお子さんと観戦する場合は、やや外れた場所でも視界が確保できるポイントを選ぶ方が満足度は高くなります。
芦ノ湖ゴール|往路の決着と選手の消耗が最も鮮明に見える場所
ゴール地点は箱根町芦ノ湖駐車場です。往路の勝敗が決まる瞬間に立ち会えるという点で、ここに勝る場所はありません。登りと下りを走り切った選手がタスキを持って飛び込んでくる姿は、映像で見るのと現地で見るのとでは迫力が違います。
ただし現実的な難易度は最も高い場所でもあります。標高が高いため気温が低く、風も強い。観戦場所の確保にも早い時間からの行動が必要です。周辺の宿泊施設は例年早くから予約が埋まるため、計画は前年のうちから立てておくくらいの心構えが要ります。
逆に言えば、その苦労に見合う体験ができる場所です。ゴール後の選手が立っていられずに崩れ落ちる姿を目にすると、20.8kmという数字の裏側にある負荷が一気に理解できます。5区の意味を体で理解したいなら、一度は訪れる価値があります。
観戦の防寒と交通規制|1月2日の箱根を甘く見ない
観戦で最も多い失敗が防寒不足です。走る選手と違って観客は動きません。標高が上がるほど気温は下がり、芦ノ湖周辺では体感温度が氷点下近くまで落ちることもあります。数時間立ち続けることを考えると、ダウンジャケット、手袋、ニット帽、厚手の靴下、そして使い捨てカイロは必須と考えてください。
足元の冷えは特に見落とされがちです。アスファルトの上に長時間立っていると足先から体温が奪われ、途中で観戦をあきらめる人が毎年出ます。靴用のカイロを入れておくだけでもかなり違います。
交通規制については、大会当日は広範囲で通行止めが実施されます。最新の規制情報とコースの詳細は、必ず大会公式サイトで確認してください。東京箱根間往復大学駅伝競走 公式サイト コース紹介に区間ごとの距離やコースの解説が掲載されています。
まとめ|箱根駅伝5区コースは「20.8kmの登り」ではなく「874mを登って下る」区間
5区が特別な区間である理由は、距離の長さではありません。海抜に近い小田原から標高874mまで一気に登り、16.2km地点で下りに切り替わるという構造そのものが、走力差を最大限に増幅する装置になっているからです。登りの脚と下りの脚を20.8kmの中で使い分けなければならず、その切り替えの巧拙がゴールタイムを左右します。
第102回で青山学院大学の黒田朝日選手が記録した1時間7分16秒は、従来記録を1分55秒も上回るものでした。平均キロ3分14秒という換算値を見れば、それが平地のハーフマラソンでも通用するペースであることがわかります。同時に、かつて23.4kmだった距離が低体温症や低血糖のリスクを理由に20.8kmへ短縮された経緯を知れば、この区間が選手の安全と競技性のバランスの上に成り立っていることも見えてきます。
そして5区は、テレビの向こう側だけの世界ではありません。国道1号線というコースの性質上、交通量や歩道の狭さといった制約はありますが、市民ランナーが自分の足でこの坂を体験することは可能です。まずは箱根湯本駅から大平台のヘアピンカーブまでの往復約8〜10kmから始めてみてください。標高差にして200m前後を登るだけでも、5区がなぜ「最大の難所」と呼ばれるのかが体でわかります。
最初の一歩としておすすめしたいのは、箱根に行く前に自宅近くの坂で慣れておくことです。勾配5〜8%・長さ300〜600mの坂を4本から始めるヒルリピートを月2〜3回。これを2か月続けてから箱根に向かえば、あの登りが「無理な坂」から「登れる坂」に変わります。テレビで見ていた景色を自分の脚で通過する体験は、市民ランナーにとって忘れがたい一日になるはずです。
※コースの詳細・区間距離・交通規制などの最新情報は、大会公式サイトでご確認ください。

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